昭和49年03月28日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
私共お道の信心をさせて頂く者は、日の内にどれ程「金光様」を繰り返しておるか分からんと思うのです。皆さんもそうだろうと思うです。「金光様」とこう、もうそれこそ口癖の様にお唱えさして頂いておる。そこで、その「金光様」を唱える所に、もうそこに金光様のお働きがあっておる事を、私は感謝する言葉が、また「金光様」でなからなければいけないと思うです。
「金光様お願いします」と言うのではなくて「金光様」を唱える所に、もう金光様の働きを頂いておるんだと、もう来て下さってあるんだと。ですから「金光様」と唱える時には、その内容は有難いと云う物でないと、神の声を其処に聞くとか神の姿を其処に見ると云う様な、実感のこもった有難い物になって来ないと思う。言うならば「悲しい時の神頼み」とこう言うですけれども苦しい時に「金光様」と言うて、おすがりをさせて頂いてもね、それは来て下さってあるでしょうけれども。
金光様の働きを感じ入る事が出来ない。只苦しいばかり。是はもう有難いという意味合いで「金光様」を唱えさせてもらう事によってです。私は苦しい時に「金光様」を唱えさせて頂き、金光様に来て頂いて言うならば、金光大神御取次の働きがもう其処に始まる。始まっているんだと思う時にその苦しさも、言うならば難儀を感じておるその難儀がです、有難い物になって来ると思うです。
金光様が自分の都合良か時だけ来て貰う。都合のよか時だけ働いてもらうと言った様な事では、私は大した事ではないと思う。成程それは事実の上にはありますね。それこそまさかの時と仰るが、まさかの時でも矢張り「金光様」を唱えさせてもろうて、そこに不思議な奇跡と思われる様なおかげを受けるんですけども、私共はもう常日頃、金光大神様が、言うならばもう私と共にある。あって下さると云う様な信心を頂きたいです。いわゆる「神我と共にある」と云う生き方です。
ですからもう是は期せずして言葉を付いて出るのは、やっぱり「金光様」でありますね。あとは「有難う御座います」なんです「形がのうなったら来てくれと言う所に行ってやる」と。先日「二十五年後に地球上の人類が破滅する時が必ず来る」と言う風に予言しておる人、その話を此処でさせて頂いたんです。ですからあのう兎に角私は神様にお知らせを頂いたんですけれども、自分で自分の首を括る様な事の無いおかげをね。
あのう自分で自分に縄をかける様な生き方と云う様な生き方から、もう限りなく広がって行く。限り無くおかげも頂けて行けれる道を辿らしてもらい、まあそう云う道を一つ体得して置かなければいけない。例えばよ、そんなら「もうそん時はそん時ですたい」と言うごたる風な事を言われるから、まあ話したんですけどね、そう云う時には、もうそれこそ世界中の人間が皆しまえてしまう時なら、もうそん時はそん時と、こう言う訳なんです。けど私は申しました。
「そん時はそん時で良かろうばってん、なら魂の世界までは崩れませんからね」と地球はある程度崩れて無くなるかも知れんけれども、例えて言うならけれども魂の世界だけは崩れない。魂の世界ではやはり言うならば、金光様の御取次を頂いて、天地の親神様のおかげを頂かなければ出来んのです。もう魂の世界まで壊れてしまう。魂までなくなってしまうと云う事は絶対にありえない。例え地球上の人間が滅びてしまっても、地球が例えば破滅してしまっても、だからそのどうとかなるごたる。
「どうとかなる」とか、「そん時はそん時」と言った様な事では、それこそ魂が永劫例えば苦しみの魂と云う様な事であってはならないから、よしそう云う事があっても、たましいだけはやはり有難い活動の出来ると云うか、有難いたましいを私は創っとかなければいけない。その事に非常にこう、「今日は良か話を頂いた」と云う風に言うて下すった方があります。私共はなら、「金光大神も形がのうなったら」と仰せられるが、私共も形がのうなった時にもです。
やはり金光大神の御取次を頂いて、金光大神の働きを愈々受けさしてもろうて、魂ながらにも信心を進めさして貰い、おかげに出来れるおかげになっとかなければならない。金光大神の道は、だからもう永劫、何時何時までも広がりに広がって行くおかげを頂かしてもらわなきゃならん。また頂けれる道であると悟る時に、なら現世の修行と云う事がです。焦点を言うなら和賀心においての精進であり、苦労でなからなけりゃならん。苦労と云う事は修行と云う事です。
どんな場合であってもそこに和賀心を頂かして頂く為の修行である。あれは、今下関に見えておると言う話ですけれども、広島から佐藤寛雄と言う先生が、ここにしばらく修行に来ておりまして純粋な心の、若い先生ですけれども、非常にその純粋な心の人でした。純な人です。佐藤四九郎はお祖父さんにあたる方ですね。その人が此処におかげを頂いて、もう異様なまでの感動に触れて、此処へ来た時はもう、私があの時分は確か十時、九時から御祈念で、十時が終わる時分だったと思うんです。
汽車が遅く着いて十時過ぎに着いて、もう御広前の電気が消えて、廊下の灯りが点いておるだけで、この御広前に着かせて頂いて、脇殿から長い廊下を通る時に、もうそりゃあもう名状しがたい感動を受けた。此処の教会は大したことだ。此処の教会ではこりゃおかげを受けられるぞと、もう来た晩にそれを感じたとこう云う。所がその翌日です。此処で御祈念をさせて頂いておる時に、此処の御神前一杯に御神眼を頂いた。いわゆる私何回もみなさんに聞いて頂いたんですけれども『平和奈心』と頂いた。
此処の御神前一杯にそんな大きな字で頂いた。しかもそれにはタイトルが付いておった。平和と云う「平」という字は、一・八・十と云う風に感じるんだそうです。いわゆる御理解なんです。平和の「平」という字は一・八・十。一を出発点とすれば広がりに広がって行く、そして、そこへ十と云うのは、十全と言うですかねえ、所謂お徳を全うすると云うか、おかげを頂き通すと云う事なんです。
平和の「平」そう云うタイトルが付いておった「和」と云う字は今度は丁度鉄筋コンクリートで作った様な「和」の字であった。どんなに例えばハンマーで叩いても叩いてもとても崩れそうにもない程しの頑丈な「和」と云う字を頂いた。だからお道の信心で言う「和の心」と云う和賀心の和というのはどんな場合でも迷いが出ない、どんな場合でも崩れないと云う心が「和の心」です。言うなら迷いの無い信心と云う事です。
自分の思う様になったら、もうその信心が崩れる様な心では、その人の心はお道で言う「和」ではないと云う事が判ります。そりゃ穏やかでない時には「和」では無いのですけれども、それはあってもいいと思うです。けれどもそこに迷いが起こったり、崩れたりしてはならないと云う事です信心は。是ほどお縋りしておるのにどうしてこんな事が起こって来るだろうかと云う様な心ではない。是はまあだ信心が足りぬのだと思うて一心の信心が出る、一心の心が出る様な私は心だと思うです。
そりゃあ本当言やあ和賀心に越した事はありませんよ。和らいだら何時も和らいだ心である事に越した事は無いのですけれども、私共は和らいでおるかと思うと、心がやはり、乱れたり荒んだりしておる事があります。だからその時どう云う、なら事態になりましても、そん時に迷わんで済む心だと云う風に頂いたらいいと思うんですよね。「和の心」と崩れないと云う事。いわゆる不壊(ふえ)の心とね、不壊とは壊れないと書く。
「奈の心」と云うのは、それを分解して大きく示すと頂いた。平和奈と云う字は奈良の奈と云う字が書いてあった。そしてそれに大きく示すと云う事であった。是を此処で言われる所の「和賀心時代を世界に」と云う様な、世界中の人達にそれを示して行くんだと。そこからです。広がりに広がって行くおかげが、おかげの世界が展開して来るんだと云う事を頂いておる。「心」と云う字は漢字の八の字を書いて、点々の所もやっぱり、八の字で頂いた。心と云う字をこう八の時を書いてごらん大きくね。
そしてそれに点点と書いたら心と云う字になるでしょうが。その点々もやはり八の字であった。八の字と云う事は、もう広ごりに広ごると云う意味なんです。私は思うんですけどね。神様がお知らせを下さる。例えば、災難が掛かって来るぞと云うのを、お知らせを下さる。または、こう云うおかげもやろうと思っておるぞと、特別のおかげを誂えて下さっておる様な、お知らせを頂く事が有りますよね。
そしたら私共が本気でそれを頂こうと云う気にならなければ受けられません。またどんなに、なら災難が掛かって来る様なお知らせを頂いてもです。災難が掛かって来るぞと前知らせをすると云うだけの事じゃない。こう云う大きな難儀が掛かって来るぞ、しっかり信心をしておかげの受け物を作っておけよと云うのが前知らせなんです。だから私はまた、改めて二十五年後に地球の破滅と言った様な、人類の破滅と言った様な事を予言した人のその予言が、あまりにも的確に四百二十年間続いて来たと云う事です。
だから、言うなら天地の大神霊がその予言者を通してです。こう云う大変な事が起きて来るぞと云う知らせを、前知らせをした訳ですから、人間が総決起して、本気で改まった、不自然な生活から自然に即応した、言うなら天地の道理に合うた生き方をさして頂けよと云う前知らせ。だからそう云う心の状態に皆がなっておったら、私は大東亜戦争もなかったと思うですね。大東亜戦争でも、日本が負けると言った様な事やらも、ちゃんと予言してあったそうですけれども。
私は改めてその予言と云う事は前知らせだと云う事です。だからどうでも世界中の氏子がです。例えばそう云う予言がそんなにも的確に現われて来る。そん時はそん時でしようなかと言った様な投げ遣りの考えではなくてです。「此のまま行ったらそう云う事になるぞ」と、そこでなら前知らせ迄頂いて有難しと云う気になって、そう云う事の起きらん様な、言わば人間が心の状態にならせて頂く事に精進すると云う、素直な心掛けになった時にです。私は言うならば予言は当たらなかったと。
当たらなかったと云うけれども、その大きな世界の難儀は地球上の難儀と云う物から、私はまた助かって行けれる道が開ける。いわゆる広ごりに広がって行くと云う、心と云う字は。ね。だから私共がどうでもね、まずは自分の身に一から八・十と云う様にです。そう云う和賀心にならして貰う、精進さして貰う「金光大神」を唱えて此処に金光大神のお取次ぎの働きが頂けれる様な、何時も心の状態をです。先ずはねそれを示して行かななければいけない。
しかもそう云う頂いた心と云う物を、またおかげと云う物を壊さない。おかげを頂いちゃまた落とし、頂いちゃ落としと言った様な、言うなら、堂々回りの様なおかげではなくてです。それこそ、広ごりに広ごって行く様なおかげを頂いてです。かくおかげが受けられると言う事実をね、いわゆる和の心を以てです。言わば大きく示して行かなければならない。奈良の奈という字は、大きく示して行く。それを世界中に示して行こうと云う運動が「和賀心時代を創る」と云う運動だと思うんです。
そう云う事になって行く時に破滅するはず、なら地球も人類もです。そう云う事にならずに、言わば、広ごりに広がって行くと云うおかげが受けられる。私共の祈りが足りなくて力が足りなくて、例えばよしなら私共の此の地球が破滅いたしましてもです。んなら心の世界までも破滅する事は、是は絶対に有り得ませんです。魂の世界と云うのは「そんなもん良か良か」でです。ならあの世行きをしたとしましょうかね。それこそ苦しみの魂として永劫過ごさんならん。
是はやはり前知らせですから、そのこう云う事があるぞと云う。前知らせですから、それを、まともに受けるのではなくて、それを、避けさせてもらう、それを、助けてもらえる道が、金光大神の道だと云う事を、私共は知らなければいけない。そう云う、金光大神の道と云うのは、「金光大神来てくれと云う所に行ってやる」と仰せられて、其処に金光大神の生きた、取次の働きと云う物が頂かれるんだ。それを私は、金光大神は教えておられると思うのです。
「今の世は知恵の世、開けると云うけれども、開けるのではなし、めげるのぞ」と教祖様は言っておられる。そういう段々めげて行く世界にです。金光大神が天地金乃神から受けておるおかげの話をです。話にして残しておくと、次の二十節にはそうあります。その話をです。今私が現代の人にも判り良い様に、皆さんにも解り良い様に、例えば今、聞いて頂いた訳なんです。だからその話を半信半疑とか、もう兎に角ね、私は頂いて帰らなければ駄目だと思うです。だから私は聞いて帰っただけじゃ。
私は何時も感心しておるのですけれども、秋永先生が、色んな会合に出られて、必ず此処に報告に見えます。 その時に、「今日はとっても良い会合でした」と。一遍だって、「今日の会合はもう詰らんでした」と言うのは一遍も無いです。皆さんが研修会なんか行って、「今日んとはもう大した事ありませんでした」と言う人が幾らもあるですよ。「もう合楽の信心が一番よか。もうよそんと聞いたっちゃ何にもならん」と言う。だから何にもならんのです。是は秋永先生は何時の場合でも。
何処からか折角時間をかけて、お金かけて行ってるんですからね、ただで帰っちゃ馬鹿らしかと云う、言わば信心の意欲と言うか根性がなからにゃいかんです。どんな例えば話の下手な話を聞いてもです。その中からこちらの意欲的な、何かを其処から頂かなきゃあならんと云う心で頂くならば、必ず、「今日は大変おかげを頂いて」と帰って来れれるんです。でなかったら馬鹿らしいです。昨日は吉井地区だから、吉井の教会で育成会のお話があった。それを大変、本当に感銘深く頂いて来とったです。
だから次の人に聞いても「判らなかった」とか、大した事なかった様な風に言う。それじゃ馬鹿らしいでしょう。昨日は佐田さん所の共励会でした「もう本当にもう若い人達の信心を聞かせてもろうてからもう本当に教えられた」と言うて帰ってきとります。若い人達の話を聞いてですからましてや朝晩のこの御理解、最近はこの二三日何ともなしにね、何かもう良う言えば悠遠な話です。けども本当にまさかの時にお役に立つ信心、まさかの時に金光大神来てくれと言えば行ってやる。行ってもろうて働きを本当に表して頂けるだけの信心をです。日頃私は鍛えておかねばいけないと思うです。
どうぞ。